児童手当をめぐる議論の一部は、「統計でウソをつく法」の見本市のようになって来ました。フランスが手厚い児童手当を導入したことと、フランスの出生率が(長いこと低迷した後)上がってきたことには因果関係があるかもしれないし、ないかもしれません。政策で手柄を立てたい人たちは、有効な政策を売り込まなければなりませんから、そのことの検証が意識的にか無意識にか、いい加減です。実際に導入してもし無効なら、「手当てがまだまだ足りないせいだ」と言えばいいのですから、彼らは安全なのです。なぜ地方自治体の赤字が積み上がってきたか、考えてみてください。使い道を追加するから赤字になるのです。
さて本題。
子作りをためらう理由は、リスクなのかアベレージなのか。ここは重要なポイントです。
アベレージだとすれば、少子化問題はひとえに負担配分の問題です。社会の維持にとって望ましい子作りのコストをどう分担するかという問題。税金で取って手当てで戻すか、保育園という現物供給をコントロールするのがいいのか。生産活動の現場である企業で費用を集めさせるのか、所得が個人に下りてから取り立てるのか。家事サービス・教育サービスがメリット財(個人の損得を超えた倫理的・社会的理由で、現状よりもっと消費されることが望ましい財)だとしたら、経済取引されず、家庭で作られ消費されている家事サービス・教育サービスを(隠れた税負担として)どう評価し、業として供給される家事サービス・教育サービスとの関係をどう考えるのか。そういう問題です。
私も公務員機構の端っこに10年いてつくづく思いますが、行政手段(減税や児童手当を含む)は、リスク処理がとことん苦手です。行政手段のオペレーションは、何より、公平でなければならないから。税金の使い道としての公平性を守ろうとするあまり、行政の対応は杓子定規で、後手後手なものになります。例えば「暴力団 生活保護」でgoogle検索してみると、行政の公平性につけ込もうとする人たちにどんなことが出来るか、現場でどう苦労しているかがわかります。
子育てのリスクは病児保育に始まって、様々な疾患・障害を持つ子への全面的責任、家庭内暴力の可能性まで、重大さや確率は様々です。「うまくいくかもしれない」が「うまくいかないかもしれない」のです。例えば職に就かなければ保育園に申し込むことは(空き具合によって地域でさじ加減は違うでしょうが)困難です。しかしいったん職を離れる羽目になると、保育園の確保が出来なければ職が見つからないわけです。職場から離れずにやって行けるのか。職場はそれを許すのか。職場も夫も口では応援してくれてもどれだけ負担は減るのか。これはアベレージだけ見ていてもムダで、どうなるかわからないリスクです。
良い家庭を育てることは、良い中小企業を育てることに似ています。リスクを(客観的に、また心理的に、周囲の人間集団の動揺を抑えつつ)処理できる力が、人数×力量の掛け算として、どれだけあるかなのです。良い中小企業を育てることは簡単だ、と言う人には出合ったことがありませんが、少子化対策は簡単に見つかると思っている人がどうも多いように感じます。