blog index

一日一喝

20で神童30で才子
40過ぎればヤバいひと
総来訪者
本日昨日
<< 第三回ミニレポートの解説 | main | 持つべきものは手数の多い卒業生 >>
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| スポンサードリンク | - | | - | - |
公立・地方国立大学は何する所ぞ
 どこをどう切ったものか、正直迷うエントリがR30さんちにあります。いろんな切り口はありうるのですが、大学人がこの種の問題に対して取る典型的な態度に対するコメントとしては、前に書いたこの文章をもって代えさせていただきます。
http://www.hnami.net/eco/wiki/wiki.cgi?essay4
 ついでにこちらもお読みいただければ幸いです。社会人にとって教育機関としての大学がどういう存在でありうるか、3つのパターンについて述べています。ごく一般的な話なので、経済学や経営学以外にも通じるでしょう。こういう分け方は、いろんな人が大同小異なものを唱えていますし、活動理論に関する本を読むともっと細かく整理してあります。人文系であっても、いや人文系であればこそ、専門教育とスタディスキルやスチューデントスキルの涵養は融合させやすいのではないかと思いますね。問題解決能力を根本的に掘り下げるのはヴィゴツキーやエンゲストロームといった人たちの仕事(活動理論)なのだし、それはもう人文科学に片足あるいは両足が乗った世界ですから。
http://www.hnami.net/eco/wiki/wiki.cgi?shakai3
 さて一般論はこれくらいにして、「首都大学東京に思う、大学は何する所ぞ 」に対しては、「公立・地方国立大学は何する所ぞ」と捉え直して論じるのが当ブログの立ち位置にふさわしいでしょう。
 アメリカの高等教育に関する本には、qualityとequalityの両立、という表現が出てきます。公教育である以上、教育サービスを受ける権利は平等に保障すべきである。供給側の都合で(おそらくここは人種差別への配慮が強く念頭に置かれていますが)選抜などすべきでない。これがequalityの要求であり、これだけを推し進めると受講者のqualityはまったく保障されず、それは講義のqualityにも悪影響を与えます。このロースクールの入学選考についてのインタビュー(下のほう)を見ると、どんなことがアメリカの入試で考慮されている(されない)かイメージできます。
http://www.niben.jp/13data/2000data/ny-law/nyu-law-0301.html
 大学が全体として余り、入り口でのquality規制が効かないとすれば、途中(単位)と出口(卒業)の厳格な成績認定でqualityを保障するしかないわけです。ならばいっそ勉学機会についてはequalityを優先して、志願者を基本的にみんな受け入れる公立短期大学ないし公立大学をつくってはどうか。私の理解する限りでは、これがアメリカのコミュニティカレッジと総称されるものです。
 会議で回ってくる資料で見る限りでは、地方国立大は押しなべて、いや大学は多かれ少なかれ一斉にそうなっていると思いますが、学生への細かいケアに割く人手・手間を増やしつつ、厳格な成績評価の禍々しい側面をソフトな指導で吸収する方向に進んでいるようです。
 公立大学が高等教育サービスへのequalityを保障する責務を負っているとすれば、多くの私立大はequalityを受け入れる経営上の必要に迫られています。理由は違っても、どちらも学生をえり好みできないのです。その結果、もし仮に公立大学らしく教育の機会均等を保障したとしても、地方国立大や公立大独自の立ち位置を確保することは難しいのが現状です。
 では、教育により多くの手間隙をかける大学として公立大学を特徴付けることは、できるでしょうか。伝統的に研究者は陰に陽に、研究者同士の相互評価に服してきました。急に教育評価を個人の査定に加えようとしても、納得の行く方法論はなかなか確立せず、旧来の評価による限り研究業績を上げることがほとんどすべてであり、教育上の業績はほとんど評価されないままです。ひとつの大学で教育上の評価を受けたとしても、それが他大学で評価されないとすれば、教員はその大学管理者を家元とする閉鎖的な世界で生きてゆくほかなくなりますから、いい教員ほど逃げ出してしまうでしょう。
 この点はここ1、2年で急激に変わりつつあります。各種の業績調書で教育に関して書く欄がやっと出てきましたし、少なくとも教育に関するマテリアルをネットに公開すれば、誰かが読んでくれるようになりました。
 いずれにせよすべては現場で起こるのですから、首都大学東京の管理本部側は教育現場に入り込む算段をもう少し緻密に立てておくべきだったでしょう。理念の良し悪しではなく、スタッフの心をつかむことを端から考慮しなかったように見えますし、それは大学であろうとなかろうと、組織の経営として良いバランス感覚ではないでしょう。特にスタッフの努力を教育に誘導するのであれば、人事評価に関する明確なメッセージを出して、スタッフからの応答に耳を傾けるべきでした。もっとも聞いてもらえるかはまた別ですが。なまじ研究上で評価される教員を抱えすぎていたのが、都立大学の不幸であったかもしれません。

 ちなみに、専任教員が極端に少ない通信制大学の実例や、eラーニングの乱入で多様化するアメリカ高等教育については、
吉田 文「アメリカ高等教育におけるeラーニング:日本への教訓」TDU(東京電機大)出版局(2003年)
 が詳しく述べています。また物議をかもした単位バンクシステム
http://www.daigaku.metro.tokyo.jp/kyoiku_tanibank1-1.pdf
 は、ポートフォリオ評価と呼ばれるもので、
金子忠史『新版 変革期のアメリカ教育〔大学編〕』東信堂(1994年)
 にニューヨーク州立大学エンパイア州立カレッジの運用例が詳しく紹介されています。ちゃんとやれば理想的な社会人教育システムですが、上の吉田先生の著書にあるように、いわゆるディプロマ・ミルが適当に運用すると単位が乱発されてしまいます。

 最近の「学び」に関する考え方は、「きみたちがいて、ぼくがいる(c)チャーリー浜」という領域に近づいています。学ぶ人Aがいて、学ぶ人Bがいて、互いに相手を意識して関係ができると、極端に言えば教えるという行為がまったくなくても学習組織として成り立ちます。相互に刺激し合える場があればできるような、そういうタイプの学びもあります。そういう学びには大学が要りません。ハコは要るけどワクは要らない、というべきでしょうか。
http://www.interfield.org/
| 並河 永 | 大学教育 | 00:48 | comments(6) | trackbacks(10) |
スポンサーサイト
| スポンサードリンク | - | 00:48 | - | - |
コメント
はじめまして。いつも楽しく読ませていただいております。

本エントリを読む限り、公立・地方国立大学は専ら「教育」を旨として目標を掲げるべきとお考えかと思うのですが、そういう理解でよろしいのでしょうか。石原都知事のメッセージも「教育機関」としての側面しかないように思います。

一方、R30氏のコメントは、ほとんど人文科学に関する「研究」をターゲットにしていると思うのです。最近、「教育」と「研究」を分離することの妥当性などについて考えることが多いので、気になります。

あ、ちなみに「TDU」は「東京電機大学」ですので、吉田氏の著書は東京電機大学出版会の出版ですよね。(TDUは私大、UECは国立大)
| Leoneeds | 2005/01/28 2:02 PM |
 さっきこちらに乱入して書いたばかりですが、
http://d.hatena.ne.jp/umeten/20050126
 外からの要求は、それがローカルなものであればあるほど、教育寄りか現世利益的開発に寄るだろうと思います。それ自体は仕方がありません。問題はそれにどう身を処すか、なのです。大学人からの応答が研究の意義を強調するほうに偏り、きつい言い方をすれば、外から提起された問題をはぐらかしている。そのあたりをR30さんはとらえて、研究で認めてもらいたかったらスポンサーを別途見つけなよ、と言っておられるように読みました。
 ですから研究の機会を死守するという観点からは、教育と接点の高い(職業教師としての存在意義を主張しやすい)研究、大学の資源を当てにしなくても良い(または大学間でリソースを共有しやすい)研究、アフターファイブだけで生き残れる研究(笑)といったものを真剣に模索してゆかねばならないと考えています。あわせて、教育でどういう工夫をしてどういう成果が上がっているか、上手に宣伝する組織的な算段の良し悪しも死活問題になってくるでしょう。
| 並河 | 2005/01/28 4:08 PM |
 誤記の御指摘ありがとうございます。やっと気づいて直しました。
| 並河 | 2005/01/28 8:07 PM |
並河様、コメントありがとうございます。

大学及び大学人がそれだけの戦略性を持って大学や研究室を経営していくという認識が大切ということですね。納得いたしました。

いい加減、大学人も自分たちを仙人に擬すだけではなく、現実的な対応もしなければなりませんね。
| Leoneeds | 2005/01/28 10:58 PM |
 エントリを立てるほど長くないので、トラックバック先へのお返事をここに書いておきます。
 正しいか正しくないかではなく、伝わるか伝わらないかがより大きな問題であることは、マーケティングではごく普通にあるわけです。なぜこの議論にまともに取り合おうとする人が大学関係者ばかりなのか、というところに、じつは深い深い問題があります。仲間内とばかり話していることに気づいていないのか、気づいても何もしていないのか。
 意義のある研究であっても、その成果のどれだけが都内に残るのか、都税をつぎ込むことの意義はどこにあるのか、と問われたとき、どう答えればいいのでしょう。大学に個人的利害関係のない都民なら、そう問うて当然ではありませんか。
 もちろん都立大学/首都大学の経営判断として、経済学のスタッフを抜いてビジネススクールや法科大学院がうまく回るのか、考えていなかったとすれば迂闊であるし、考えていれば(現在どうもそのようであるように)まったく無策というわけにも行かなかったでしょう。実際、日本においては金融は東京の地場産業なわけで、地域起こしとしての金融産業研究を奨励する施策はあってもおかしくないでしょうね。
| 並河 | 2005/01/30 3:33 PM |
並河様
はじめまして。shigと申します。R30さんのところで紹介されたブログの者です。R30さんのところへのコメントやこちらの記事を参考にした記事を書きましたのでトラックバックさせていただきました。
| shig | 2005/02/01 11:38 PM |
コメントする


この記事のトラックバックURL
http://hnami.jugem.cc/trackback/128
クビ大(=首都大学東京)構想への幾つかの誤解?
 内田先生Blog、さらにR30さんの「首都大学東京に思う、大学は何する所ぞ」をきっかけにして、いわゆる「クビ大(=首都大学東京)」問題が、Blog界で活発に論じられるようになってきた。 大変、喜ばしいことである。随所に付されているコメントを見ると、そもそも都
| Sociologie du droit pour liberer la nature humaine | 2005/01/30 1:06 AM |
クビ大なんてマジでどうでもいい
 首都大学東京(クビ大)の話で、Remember309さんのブログから大仰な内容のエントリのトラックバックをいただいた。  それによると僕の前回のエントリの内容
| R30::マーケティング社会時評 | 2005/01/31 1:52 AM |
どうでもいいけど「徽宗の絵」は好き?(都立大最近の動き番外編その2)
意味不明の題名ですみません。ここのところの驚異的なアクセス数増加にちょっと舞い上
| 那覇旅行 都立大のこと | 2005/02/01 11:33 PM |
-
管理者の承認待ちトラックバックです。
| - | 2007/07/01 7:09 AM |
-
管理者の承認待ちトラックバックです。
| - | 2007/07/03 6:04 PM |
-
管理者の承認待ちトラックバックです。
| - | 2007/07/10 6:21 AM |
-
管理者の承認待ちトラックバックです。
| - | 2007/07/10 7:15 AM |
-
管理者の承認待ちトラックバックです。
| - | 2007/07/10 8:21 AM |
-
管理者の承認待ちトラックバックです。
| - | 2007/07/10 2:37 PM |
-
管理者の承認待ちトラックバックです。
| - | 2007/07/10 4:53 PM |
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
<< September 2017 >>

bolg index このページの先頭へ