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大学をどうする(2)スポンサーの性質、大学の個性、教員の課題
「個性(が)輝く大学」というキーワードは1998年の大学審議会答申に使われ、2001年の「大学(国立大学)の構造改革の方針について」でも言及されています。特に1998年大学審議会答申には、
「例えば,総合的な教養教育の提供を重視する大学,専門的な職業能力の育成に力点を置く大学,地域社会への生涯学習機会の提供に力を注ぐ大学,最先端の研究を志向する大学,また,学部中心の大学から大学院中心の大学」
 という4つのありかたが例示(あくまで例示です)されていますが、ひとつの方向に大学をまとめて突き進む、という方向には、明らかに日本の大学は行こうとしていません。むしろすべての大学があらゆる方向に手を出して、国際化も最先端研究も地域貢献も抱え込もうとしています。
 もともと学者というのはもっぱら研究業績で評価される実情があり、また地位・収入は棚上げして社会的存在としてだけ考えても、そうした仲間内での評価を人生の支えとするのがカッコイイと考えている人種です。学者が大学の実権を握っている限り、研究志向を大学が捨てることはありえません。限られたヒト・モノ・カネは、いくら例えば教育が重要だと叫ぶ人がいても、「もっと重要な」「とても重要な」「一番重要な」研究にまず費やされます。
 じゃあ経営に学外の利害関係者、例えば地域代表を入れたら大学は変わるのでしょうか。単に役員会などが通知書を送るだけでは現場は変わりません。首都大学東京/東京都立大学を巡る紛争にはさまざまな意見があるでしょうが、「設置権者(東京都)が現場のコントロールに失敗した」ことは間違いありません。
 経営に関わる人の中でも、スポンサー(設置権者)がはっきり「地域貢献」の要求を出すことで、良くも悪くもアメリカの大学はできてきたんじゃないか、と思っています。地域と地域が極端に言えば「住民集め競争」をしている中で、地域の人へのサービスとして高等教育をやれと。そうすると大学は、入試ではうるさいことが言えません。高校を出てればとにかく受け入れる、極端な場合には高校卒業のチェックすらしない、ということになってしまいます。「平等な教育機会提供」というコンセプトならそうなりますよね。もちろんタテマエとしては、各教科の評価で振り落とすことで質を確保します。単に試験が難しいだけだと、みんな試験には出てきますしトラブルも際限なく増えますから、日ごろの課題を重くします。とはいっても、「サービス提供」という観点からは顧客満足が重要です。教員がホームパーティーで評価者たちを供応するとか、いろいろ問題はあるとしても、授業評価の高い授業をしてくれというのは(文句を言われる立場でもある)設置権者の自然な要求でしょう。
 もちろん現場は黙っていません。アメリカの州立大学で大規模なものは、経営主体であるユニバーシティの下に多種多様なカレッジを作って、このカレッジは生涯教育専門、このカレッジは最先端研究、といった色分けをして、両立を図っています。個々のスタッフは研究のできるカレッジに残ろう/入ろうと必死で研究して、手っ取り早く成果を出そうとしますし、自分と所属組織のために外部資金を分捕ろうとします。地域がスポンサーになって最先端研究をして、その成果が地域に落ちるかというと、普通はそうではありません。カネのかかる研究は、それを事業化する、地域にとらわれないスポンサーを別途呼ぶか、国レベルのまとまった資金投入に食らいつくかしろ、と州政府は言って当然でしょう。都立大学の場合、「東京には先端研究より警官や初等中等教員が必要だ」と啖呵を切って、最先端研究をばっさり捨てるか小さく押し込めるかしていれば、大学のあり方への強烈な問いかけになったと思うのですが、石原知事のエリート礼賛意識がそれを邪魔したのでしょうか。
 日本の場合、良くも悪くも設置権者が国であり続けていることがポイントです。政府の規模にもよりましょうが、日本くらいの人口になると、都道府県間や都市間の利害対立をひとつずつ国レベルで話し合ってもまとまりません。同じ基準で各地域を平等に応援するしかないわけです。大学に個性が乏しいのは、良くも悪くも、スポンサーに個性がないからです。
 今後のひとつの可能性としては、学内・学外を説得するノウハウを身につけた「高等教育財閥」がいくつか台頭して、多くのカレッジを傘下に置き、あらゆるタイプの高等教育を提供することが考えられます。しかしそのコアになるのは一種の行政能力で、研究能力でも教育能力でもありませんから、運営サイドにわざわざ頭を押さえられに行く研究・教育スタッフがどれだけ確保できるか、やや疑問です。
 予算節減以外の要求事項を特に持たないとき、お上はむしろ我々になんの厳しい要求もせず、まず無為を与えるでしょう。そしてできた実績の空白が十分にたまったとき、お上は突然自己規律や自助努力の不足を指摘して、我々の禄を奪うでしょう。
 いま大学教員に求められるのは、個性輝くウリモノを増やすことだろうと思います。研究にとどまらず、教育ノウハウ、発表ノウハウといった、再利用可能・反復可能なスキルすべてを。それは個人の生き残りの鍵であると同時に、当面は、組織に唯一残された生き残りの鍵でもあるでしょう。何の方針も押し付けず、ただ予算を削ってくる設置権者に対して、研究教育スタッフが持つ内部合意形成のノウハウは貧弱で、いつまでたっても他人に問題を投げること、他人に理念を問うことが繰り返されるばかりです。手の中のカードを増やすこと、そしてそれを見せ合うことから始めるほかはないでしょう。
| 並河 永 | 大学教育2006 | 11:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
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