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大学をどうする(3)方針不在と野性の感覚
「私立でもできることをするために、国立大学は国費を使いすぎている」という批判は、1990年代前半にはもう国立大学に漏れ聞こえていました。誰の発言として聞こえてきたかというと、各種の審議会に出てくる、私立大学の先生たち。1000校(短大含む)の私立大学が3000億円の私学助成を奪い合っているときに、100校足らずの国立大学が1兆円の国費を使っているのは民業圧迫ではないか、というわけです。当時から少子化・18才人口減は目に見える未来でしたから、小泉政権以前の政権の下でも、国立大学への予算(公務員定数を含む)を減らそうという動きは間断なくありましたし、それは特定の勢力が言っている話ではありませんでした。少子化にどう対応するかという議論に決まって登場する、有力な意見でした。予算を削った後どうしようという明確なビジョンのない、後ろ向きな話ではありましたが、明確なビジョンもなく財政赤字が膨らんで行く過程にあって、国立大学は漠然とした危機感を持っていました。
 小泉政権になって、国立大学の民営化(私学化)というビジョンがいつどこから出てきたのか、私も正確には知りません。経済財政諮問会議で国立大学の民営化が議題になりそうになったので、主導権を雲の上の組織にとられることに危機感を持った文部科学省が急遽「遠山プラン」を作って経済財政諮問会議に「報告」した、という話を聞いたことがありますが、真偽のほどはわかりません。大雑把に言って、首相官邸が国立大学の私学化に傾き、官僚組織がそれに抵抗した、という当時の図式には間違いはなかろうと思います。
 遠山文部大臣は民間人でした。短期間でまとめられた遠山プランは、政府・自民党に対する官僚の対案とも言うべきものですから、文部科学省のイニシアチブだけで(政治家の積極的な協力がなくても)できそうなものだけで組む必要がありましたし、「私学化」への対案としてもっぱら運営面に関心が集中しました。その要点は「再編・統合」「民間的発想の経営手法導入」「第三者評価と競争原理導入」の三点でした。
 この三点のうち、文部科学省が曲がりなりにも自分の手の内で処理できているのは最後の点(例えばいわゆるトップ30の選定)だけで、経営に関しては独立行政法人という一般的な枠組みに押し込められ、再編・統合については医科大学の統合がいくつかあっただけで、頓挫してしまいました。
 再編・統合は地域の利害が絡むために、機能を奪われる地域の議員や地方自治体が抵抗します。文部科学省はこの問題を大学の才覚で進めることを期待したのでしょうが、卒業生を大学の製品と見なせば、例えば地域の学校は教育学部のお得意様に他ならず、大学が地域の意向に反することを押し通すのは無理があります。短い検討期間で目玉を作ろうとした遠山プランに無理があったというべきでしょう。良し悪しはともかく、こうしたことは首都大学東京がそうであったように、設置権者が自分で乗り出して無理を通さない限り、なかなか進みません。
 単に民間から経営への役員参加を求めても、それによる役員へのメリットが特になければ、身の入った参画にはなりません。国立大学を操って自分の望む何かをさせようとする主体が、(2)でもすこし述べたように、見当たりません。これは大学人についても同じことで、大学全体で何かをする(させる)ことと、従来の研究者人生の間には、何の接点もないのです。
「生き残る」「生きて在る」こと自体に価値を見出すのは、虎狼の群れに混じって生きている社会人ならむしろ当然の気持ちです。研究者はどうもそのことを嫌っていたり、真剣に考えていなかったりします。しかし卒業生につけてやることが求められているのは、まさにその「野性の感覚」であるように思います。だまされない力とか、過労死者を出さない程度に周囲に提案し、周囲を組織する力とか。だとすれば私たちは努力して、自分たちもそれを身につける必要があります。自分のやりたくないことを人にやれと教えるのは欺瞞でしょう。
 生き延びるためには、時には全速力で逃げなければなりません。足が遅ければ食われます。社会をいろいろな方向から見て、軽々しく人の問題に首を突っ込まない心がけは、重要な生き残り能力です。職場にすべてを捧げず、心の一部に花鳥風月や実験器具や書庫や遊び道具を持つことは、職場での大きな成功の妨げになるかもしれませんが、社会を安定させる多くの普通の人々に満足感を与え、明日も今日と同じように社会を回す支えとなります。なにもいわゆる実学だけが、生きる力を与えるわけではないはずです。しかし実学にもうまい教え方、より実践的なカリキュラム構成があるように、虚学もまた「生きる中での虚学」としてのカリキュラム構成を不断に問い直し、教育のために準備・工夫することが必要であろうと思います。
 教員が「生き残る」「生きて在る」ことに自分なりの価値と解釈を見出し、それに取り組むことの延長上に、大学の生き残りへの取り組みがあるのだろうと思います。国立大学の存在意義をめぐる空白は構造的なもので、待っていて埋まる類のものではありません。待っていたら大学ごと生き埋めにされてしまいかねません。何をもって自分の存在を正当なものと為すか。本当はそれが今問われているし、ずっと問われてきたのであろうと思います。
| 並河 永 | 大学教育2006 | 14:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
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