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大学をどうする(5・完)ウリモノとダシモノ
 さて最終回です。
 これからの大学は出口管理が重要だ、というようなことを私もブログやサイトのどこかで書いてきたと思います。どうもそうではないな、と今になって私は思っています。
 そう考えたきっかけは、いくつかの選抜における入口管理の輝かしい現状です。ええもうどうにもこうにも輝かしいです。まぶしくて目をそむけたくなるほど。しかしもしこれだけなら、「卒業してぇなら俺のブロックを抜いて行きな」と私ひとりくらい全ツッパリで突っ走ってもいいのです。
 いま大学卒業生に一番必要なものが、出口管理とどうも合わないんじゃないか。それが最近の私の考えです。
 いま労働市場はどんどん二極分化しています。使う人と使われる人と。使われる人を要領よく育てることで、大学はとても専門学校にかなわないだろうと思います。だから使う人を育てるしかないわけですが、使う人に求められる能力が、「問題解決能力」とか「創意」とか「社交性」とか、そう簡単には測れないものになってきています。
 いっぽう、出口管理を「組織として」徹底するためには、「組織として」の全体合意が必要です。例えばEREやTOEFLのような、唯一ではないがひとつの尺度として定着したものを卒業のハードルとして、まず組織のスタッフが共有しなければなりません。それができなければ、出口管理は個々の判断の単純合計、という現状から進めません。
 卒業生になにかウリモノを持たせてやる。測ることは難しいが、自分でそれを語ることはかろうじてできるような。その語り方についても相談に乗ってやる。そういうものが、最も求められているんじゃないかと思うのです。
 入口管理の崩壊と、出口管理の様変わり。どちらも、大学にいる人間をますます多様にします。大学生の学力崩壊がよく引き合いに出されますが、「学力崩壊」と同時に「学力分散」も起こっています。できる人はできるし、できない人はできません。ペーパーテストをやっても面接をやっても、短時間で公平に処理できる方法で(入試そのものにも多額の費用と多くのマンパワーを必要とします)受験生の属性をそろえることが難しくなって来ました。そもそも大学全入時代に、入試を工夫してできることはたかが知れています。
 多様な学生に向かって、教員の用意する授業は、ダシモノとしての性格を強く持つようになって来ます。そしておそらく、学生を個体識別して揺り動かすことがひとつの要素として入ってきます。単なる知識伝達は、書籍・ネット情報からMITの配信する講義ビデオまで、教室以外のありとあらゆる場で可能ですし、教室のほうがうまく行くとも思えません。講義は教科内容のポイントだけを示しながら、「勉強する気にさせる」「汎用的な考え方や手順を身につけさせる」ことにウェイトを置いたものになるでしょう。
 Mezirowという教育学者が中心になって、アメリカの成人教育ではTransformative Learningを大学教育の理念型とする取り組みが広がっています。「変わること」そのものに受講者にとっての価値がある、という考え方です。すでに「自分の生き方」を良くも悪くも身に染み込ませてしまった社会人が、大学教育を受けることによって「今まで考えなかったことを考える」「今までしなかった見方をする」ようになれば、それで値打ちがあるじゃないか、という考え方です。そのためには例えば、一方的に新たな考え方を吸収させるだけでなく、自分の今までのやり方を再整理し、新たに提示された考え方と比較する必要があります。講義は対話的にはできないとしても、少なくとも内省を促すものでないといけないわけです。
 いま世間が大学に対して求めている卒業生像はどんなものでしょう。アンケートすれば「問題解決能力」とか「協調性」とかいった言葉が並びますが、それは要するに「できる奴」と言っているようなものです。要するに世間も、何を測ったらいいのか、何を求めたらいいのかわからなくて、「できる奴以外いらないよ」と漠然と希望を述べているのです。世間の求める卒業生像が「一人前の大人」といった最大公約数に近づくにつれ、新卒向け高等教育に求められるものと、成人向け高等教育に求められるものは重なってきます。自分を相対化して語れる能力。勉強したことを単に「聞かれたら答えられるようになる」のでなく、生活の中に取り込める能力。そして自分で学ぶ姿勢とノウハウ。
 それに応えようとすれば、講義は「完成した知的体系の伝達」から、「狙いを持ったプレゼンテーション」「学ぼうという説得」に変わります。教員は研究者として今までに知っていることを、狙いに素って再整理する必要に迫られますが、それは手間がかかります。よく「10年間同じノートを使っている」というのが大学教員への揶揄に使われますが、これからは「10年間保つダシモノを用意できたらたいしたもんだよなあ」といった感慨を教員が持つようになるでしょう。よく準備されたダシモノをどれだけ持っているか。それが教員の甲斐性になると思います。繰り返し使える部分をなるだけ生かしながら、世間の要求に沿ってパーツを取り替える、という発想がないと、準備負担に押しつぶされてしまうでしょう。
 金銭的報酬と、世間・学会の評価と、自分の幸せは、それぞれ別のものです。教員自身が自分なりの割り切りを持ち、学生とそれを語り合うのが良いでしょう。自分が守れない卒業生に企業を守ることなどできません。
 世間が研究にお金を出すかどうかは世間が決めることです。学問の自由というのは国民の権利であって研究者の権利ではありません。そう割り切った上で、どこをどこまで自衛するか、どんな枠組みなら共存共栄できるかをそれぞれ考えてゆく必要があります。
| 並河 永 | 大学教育2006 | 00:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
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